2006年12月25日月曜日

先祖供養

火災の話が続くが、いつまでも引きずっても致し方ないので今回で最後にしたい。足を複雑骨折をしながらも隣人をたたき起こし、抱きかかえて安全な場所に移した後に入院した弟が最後まで悔やまれた事は祖父、両親の位牌と写真を持ち出せなかった事で
私たち兄弟に何度も詫びていた。今回の事があって初めて実感したのだが、男兄弟は私たち女姉妹より祖先への思いが深いらしい。被災した時すぐに駆けつけた時は、さすがにそこまで手が回らなかったが、今回帰省した折に東京に住む兄夫婦からの依頼もあり位牌を復元してもらう事にした。まず、仏具展で位牌を購入し、実家の目の前にある東本願寺の96歳になるお坊さんに祖父と父の位牌を頼み、母はクリスチャンなので市の中心地にある協会の事務所を訪ね、キリスト教の位牌を買った。今度は3人の位牌を持って墓に行き、これまでの報告をして今後は東京の兄夫婦がみるというので、飛行機にのせ一路東京へ。両親は東京へは何度も訪れているが明治48年生まれの祖父は、東京の地は初めてである。機内では隣の席が空席だったので、私と同じ様にシ-トベルをかけた。東京上空から島にはないイルミネネ-ションの景色を見せ、飛行機を降りた時になぜか「東京だよ、おっかさん」というかなり昔の流行歌のタイトルが頭をよぎった。モノレ-ルに乗り、自宅へ向かう電車にのせた。祖父や両親が東京という都会に出てきて真っ先に思うのは、温かい島の気候とは違う寒さであろうか、それともこのごみごみした都会の風景、それとも混雑した電車に乗る人の多さに驚いていたであろうか?深夜近く東京の自宅に戻ったら、家族が私よりも祖父と両親を先に手厚く迎えてくれて嬉しかった。
08:53:07 - toshiko1886 - No comments -

植物の生命力

火災にあった時すぐに駆けつけた時は、現場は危険!立ち入り禁止のテ-プが貼られ焼け跡には入れない状況だった。実家の玄関の隣に箱庭があって、黄色の大輪の花をつけるハイビスカスと熱帯植物のクロトンや何種類かの植物が季節の花を咲かせていたが、火災の後真っ黒に燃えていて両親が育てていただけに無残な姿に胸が痛んだ。2度目に足を運んだ時には、焼けた家屋や家財道具は全て運び出されその一帯は更地になっていたが、この箱庭だけは残されていて、クロトンはまた元の姿を取り戻そうと頑張っているし、ハイビスカスの枝には小さな新緑の葉が出てきて、植物の生命力の強さを思い知った。ハイビスカスは挿し木ができるので、新緑の葉をつけている枝を切って新聞紙に包み東京に持ち帰ったが、クロトンにの木はいずれはこの箱庭も整理されるのでその前に 弟が母の実家である住用という小さな村にすぐ上の兄(私たちのおじ)がいて、その庭先で生まれ育った村の山や海の景色が見れる様クロトンの木を移すというので頼んで東京に戻った。熱帯植物なので、この寒い時期に移して寒い所で根をつけるのは難しいと言われたが、またあの太陽の様な大輪のハイビスカスが見たいものである。
08:11:24 - toshiko1886 - No comments -

年の瀬に

先月中旬に実家が火災にあい、実弟の身の回りのものを揃える為帰省した。普段暮らしに必要な生活用品は身の回りに当たり前の様にあって、さらに不要なものもあるので使うものは数知れていると思いがちだが、これを家電製品からこまごまとした台所用品まで全て揃えるとなると大変な数である。役場での手続きやお見舞いして下さった方へのごあいさつ廻りもあるので、朝9時から行動を開始しても追いつかず、いつの間にか日が暮れて夜が来る。住宅に戻って購入したグッズを部屋に配置して、また足りないものに気がつき明日購入するのチェックして一日が終わる、そんな数日を繰り返したが大変な労力である。家庭で不要になったなべや、着用しない洋服、掛けふとんなど知り合いや友人が届けてくれる助けもあって一通り揃い、後は生活しながら不足なものを買い足していくというのでひと安心した。普段の月も同じだと思うが、特に年の瀬を迎える今の時期に何もないという寂しい状況からは逃れられた。骨折した足も回復に向かい、まだびっこはひきながらであるが杖なしに歩行している。また、入院中に車椅子の生活を経験して、足を自由につかえない辛さが身に沁みたらしい。気が優しいだけがとりえの弟であるが、気を配る対象が増えたのはいい事である。
07:38:40 - toshiko1886 - No comments -

2006年12月12日火曜日

島情け

11月中旬から実家で火災があってからというもの怒涛の様に時が過ぎ、気がつけばもう12月半ば。変わり果てた実家を見て呆然としたが、次の瞬間さて次は何をすればという事が頭をよぎった。まず、火災現場の後処理。火災にあって初めて焼け跡の処理は自己責任という事を知りました。実家付近は古い木造の家が建て込み、高齢者も多く全焼8世帯半焼を含めたら12世帯が被災した大きな火事だったので、焼け出された被災者で奄美市役所に陳情に行きました。町としては仕分けをせずゴミ処理場に持ち込んでくれたら、後はシルバ-人材センタ-に協力してもらいゴミの仕分けは市で行いますという配慮と、また建友会という地元の建設業界で組織するボランティア団体があるので、被災者の代表と焼け跡の処理のお願いに市の職員が同行してくれたお蔭で、焼け跡の撤去は建友会の善意で行われました。また、個人的にも新聞で火事を知った人たちが病院に訪れ、島の暮らしぶりは自分たちの生活でいっぱいいっぱいのはずなのに、着の身着のままで焼け出された弟を気遣い金品でお見舞いして下さったり、自治体からはたくさんの見舞い金が寄せられました。島にはまだまだ共同体意識が強く残っていて、こんな時だからこそ温かい善意の気持ちが身に沁みました。心から、ありがとうございましたの感謝の気持ちを伝えたい。